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130217

走る喜び

毎年2月になると、鹿児島では県下一周駅伝が行われ、県下の12のブロックから選抜された代表選手が5日間にわたって、鹿児島本土をタスキをつないで一周し、 健脚を競います。

各地には予め通過予定時間が知らされていて、沿道には、それに合わせてたくさんの人々が出て、郷土の代表に声をからして声援を送ります。

また当地ばかりでなく、冬場になると日本中で駅伝やマラソンが盛んにおこなわれ、多くの人々が沿道に出て盛んな応援を展開します。特に、お正月の箱根駅伝などは 走る人も応援する人も吹きすさぶ吹雪のような寒空の中で心を一つにして、喜びと苦しみを共有しているように見えます。

私自身は足が太いせいか、短距離は走れても、長い距離を走るのはからきし苦手でした。そのせいもあって、細い体とカモシカのような細い足ですごいスピードで 走り続ける長距離選手の颯爽とした走り姿を見ることは、憧れもあってとても感動しました。

私の父も駅伝やマラソンの中継を見るのが大好きでした。何時間も飽きずに見ている父に対して、母は「ただ人が走っているところをいつまで見ていて、 退屈しないの。結果だけ見たらわかるでしょうに。」と言っていましたが、そういうものではないのは分かります。

苦しみつつも必死に頑張って走っている選手の姿を見ているだけで、見ている私たちのほうも深い感動を覚え、頑張ろうという勇気が与えられるのだと思います。

それにしても陸上選手の不断のたゆまない努力には感服させられます。私が毎日子供たちの安全登校指導をしている時間にも、雨の日も風の日も黙々と走り続ける 高校生らしき方が見受けられました。

また、オリンピックに出られるようなマラソン選手に限らず、フルマラソンに挑戦される一般の方々も毎日数十キロを走り続けるのだそうです。走るたびに記録が 伸びるわけでもないのに、ただひたすら練習を続けることに苦痛を感じないのかしらと思ったりします。

私は若い時野球をやった経験があります。野球の練習もきついものですが、野球の場合にはまだ練習の中に自分の成長を実感できる喜びがありました。たとえば、 上手く打てたとか、上手く捕れたとか、上手く投げられたとかいう小さな喜びを感じながら訓練に耐えることができました。

しかし、陸上選手はただひたすら同じ練習、走ることのみをひたすら繰り返し、他のスポーツのように日々の成長を感じられることも少ないであろうに、ただ黙々と 走り続けるだけでは、ただ苦しいばかりではないだろうかと思っていました。

しかし、先日日本のマラソンの代表的な選手で、オリンピックでも活躍された瀬古選手の講演会で「毎日、毎日、ただもくもくと走り続け、ただ単調な繰り返しで 大変ではないだろうか。」と私と同じような感想を持っておられる方々に対して、彼は1日たりとも同じ練習をしていると思ったことはないということを言われ、 それは毎日天候が違い、気温が違い、風向きが違う条件の中で走るので、日々新鮮な気持ちで走ることができるのだということを話されたそうです。

瀬古選手の前向きな発言を伺いながら、やはり一流選手になる方は取り組む姿勢が違うのだなと教えられました。どんな苦労も、前向きにとらえるときに喜びになり、 能力が開放されるのだろうと思いました。

マラソンにおいても駅伝においても、それまでの日々の苦しい鍛錬があって、初めてあのように走れるのだな。それが周りに感動を与えてくれるのだと思いました。

マラソンに限らず、スポーツや事業、研究等でも、よい結果を出すためには、日々の過ごし方、小事に忠実でないといけないことを教えられます。

その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を 任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』マタイ25:21

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