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030810

幸せな人生II

これを読んで下さる方が必ず幸せな人生を送られるように、心を込めて祈りつつ 書いています。期待してください。

さて先回、リッチになる事と真の幸せな人生を送る事とは関係ないことを書かせて いただきました。物質的に満たされることが私たちに永続的な幸せを与えるわけでは ないのです。

そして今回は「楽しく生活することが幸せだ」ということを、はたしてそうなのか 考えてみたいと思います。確かに楽しく生活できることは素晴らしいことです。しかし、 はたして、その楽しさを幸せの目的として追い求めることが、私たちに真の幸せを与えて くれるのでしょうか。

私たちが楽しさを追求するとき、”楽(ラク)して楽しく”になってしまいます。 「楽しかったらいいジャン」という若者が今多くいます。彼らはそれで満足を得られて いるのでしょうか。

先日こういう話を聞きました。彼は立派な会社の社長さんでした。70歳前になって 引退されて、今まで必死に働いてきたので、今からは余生を楽しく生活したいと 考えました。

そこで、彼は大好きな旅行を始めました。まず、日本国内を500箇所以上周りました。 外国旅行も50回以上行ったでしょうと言われます。

豪華客船で世界一周をしたり、カナダに行ったり、イタリアに行ったりたくさんの ところをご夫婦で観光して周りました。

彼こそ幸せな人生を送っておられる人でしょう。彼のように幸せな人はそうは おられないでしょう。

しかし、ある時彼が幸せを感じられないと言いはじめたのです。なぜ、何故、 ナゼ、彼こそ私たちのあこがれとする幸せを享受できている人なのに。

そんな彼が次に言った言葉は「生き甲斐がない」でした。生き甲斐がない? そうかもしれない。楽しい、楽しいの中では生き甲斐は感じられないだろうなと 思いました。

そして、生き甲斐を感じられない人が幸せを感じることはできないだろうと考え、 彼の言っていることはもっともだと思いました。

それでは、生き甲斐はどこで感じられるのでしょう。私たちはどういう時に 生き甲斐を感じるのか考えてみました。

すると、私たちが生き甲斐を感じるところは、楽しい楽しいの延長線上ではなく、 努力して苦労しているところだと気付いたのです。

例えば、中学生になって多くの人が部活に入ります。きびしい部活もたくさん あるのに喜んで入って生きます。何故でしょう。部活に入るのと入らないのと どちらが楽して楽しく生活できるでしょう。入らない方が絶対楽です。部活に 入らなかったら学校が終わって、昼寝しても、ゲームしても、魚釣りに行っても 自由です。

しかし、部活に入った人はそうは行きません。まず訓練が始まります。走らされたり、 球拾いさせられたり、筋トレをさせられたり苦しいことがいっぱいです。遊んだり 昼寝をしたりなんてできません。それなのに高校生になってまで部活を 続けるのです。

それは、苦しみを通してはじめて、充実感、達成感が得られ、それが生き甲斐を 得させ、幸せを感じさせるからです。

私の住んでいる地域の近くで毎年初春に「菜の花マラソン」という大会が 開かれます。今年も1万3千人の人が登録して走られました。

よく考えると、これらの参加者は参加費を払われてまで延々と走られるのです。 なんでこんなにきつい思いをするために遠くから来られるのだろうと思います。

しかし、彼らが得られる充実感、達成感にはものすごいものがあるだろうと思います。 彼らはその苦しみを通して生き甲斐や幸せを実感したいと願っているのです。 高い山に苦労して登られる方も一緒なのです。

苦労することは不幸ではありません。苦労の延長線上ではじめて真の幸せを 実感できるのです。

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、 患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を 生み出すことを知っているからです。ローマ5:3〜4


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