040404
子供を愛する先生
教職員の異動の発表があり、喜入中学校からも、息子にかかわってくださった 先生方が3人転任されることになりました。
PTA主催の送別式には出席できないので、離任式の行われる日の朝、家内と2人で 3人の先生方にお礼の挨拶に出かけました。お忙しい日の朝3人の先生方にあって、 お礼が言えるかどうか心配でしたので、あらかじめ手紙を書いて渡せるようにして 学校に行きました。
しかし、3人とも、外に立っておられたり、たまたま通りがかられたりで、 良いかたちで合うことができて、お世話になったお礼を言うことができました。
そして、その日の夜9時ごろ、玄関のチャイムがなったので出てみました。するとそこに、 尊敬しているT先生が立っておられました。先生も今年限りで教職を辞められることになり、 PTA主催の送別会に出席なさり、それからの帰りということでした。
先生の突然の辞職を聞き、大きなショックを受けました。それから家内と3人で 1時間ほどお話をし、名残りを惜しみました。
先生は子供たちを心から愛しておられる先生で、特に問題を起こす子供たちには 強い愛情をもって接し、それらの子供たちからも深い信頼得ておられる方です。また、 授業の方も子供たちが積極的に楽しんで取り組めるように教えてくださる先生でした。
その先生が近頃、最愛の奥様をガンで亡くされました。全く予期していない、 信じられない出来事で、力を落とされ、子供たちに全力で取り組むことができなくなられたと 話されました。それで、定年を後1年残され依願退職を決意されたということでした。
真面目な先生だけに、中途半端なことができずに退職の意を決められたのですが、先生が おられなくなることには、深い寂しさを覚えます。
先生の子供たちに対するほとばしる熱い思いと、その接する愛の姿勢を見るとき、自分の 薄っぺらい愛情がいつも恥ずかしくなります。
神様は私みたいな中途半端な人間ではなく、このような立派な方を牧師にされたら 良かったのに、損をされたな〜と、よく思います。
聖書には、人間は一度死ぬことと死んだ後、裁きを受けることが定まっているとあります。 私たちはやがて神の前に立つ時が来ます。
その時、私の父に祝福された正しい人たちとは、
「あなた方は、私が空腹であった時に、私に食べる物を与え、 私が渇いていた時、私に飲ませ、私が旅人であった時、私に宿を貸し、私が裸のとき、私に着る物を 与え、私が病気した時、私を見舞い、私が牢にいた時、私をたずねてくれたからです。」すると、 その正しい人たちは、答えていいます。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、 食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつあなたが旅をして おられる時、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、 私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。すると、 王は彼らに答えて言います。「まことに、あなた方に告げます。あなた方が、これらの私の兄弟たち、 しかも最も小さい者たちの一人にしたのは、私にしたのです。」 マタイ25:35〜40
とあります。
私たちは主に仕えるように、私たちの隣人、また価値を認めてもらえないような 小さき人たちにも真心から仕えていきたいものだと、先生を見ていると教えられます。