041128
創り主なる神の作品
指宿市での子育ての講演会の準備をしながら、子供たちが小さかったときのことを思い出しました。
子供たちはそれぞれ「何で何で、どうしてどうして」といつも聞いてきました。長男は特にひどかった記憶があります。
最初は答えていても、そのうちにいらいらしてきて、「いま忙しいから静かにして。」 「そんなことはお母さんに聞きなさい。」なんて言って逃げたりしていました。
今思い出すと、たぶんうまく答えることができなくて、いらいらさせられたのだと思います。大人の私たちにとっては 至極当たり前に思っていることが、改めて聞かれると答えに窮するということがよくあります。
タレントの中村メイ子さんが小学生のとき、夕焼けを見て「お空がどうして赤いの。」とお父さんに聞いたところ、お父さんは 「お日様が恥ずかしがっているんだよ。」と答えたというのです。それで彼女は学校でそれを発表して皆に笑われたそうです。
私たちがあまり深く考えないで、分かったような気で見過ごしていることを、子供たちはズバッと聞いてきます。しかし、 この子供たちの好奇心はとっても大切です。
お天気博士の倉嶋厚さんが気象庁に入庁されたとき、「雨はどのようにして降ってくるのか。」と聞かれたそうです。 彼は自信を持って「それは霧の水滴が集まって雨になってくるのです。」と答えました。すると、「一滴の雨が出来るためには、 霧の水滴が何万個も必要なんだよ。中途半端な知識で分かったような気にならないように。」と諌められたそうです。
(もっとも、これは20年ほど前カーラジオから流れたのをサラッと聞いたもので、正確ではないかもしれませんが)
私たちは何にも知らないのに、何でも分かったような気で生きているように思います。パスカルが「私たちは知らなければ ならないことの大海の一滴ほども知っていない。」といっている通りです。
子供たちの歌に、鶏と卵とどっちが先かという楽しい歌があります。確かに、鶏がいないと卵は生まれないし、 卵がないと鶏にはなりません。いくら考えても結論は出ません。
花の黒い種が緑の葉っぱを出して、光合成をし、赤い花とか白い花を咲かせます。種がどうなって、緑の葉っぱや綺麗な花を 咲かせられるのか分かりません。しかし、私たちはそれを自然にそのようになっていると、ごく当然のように受け入れて、 深く考えもしません。
しかし、真剣に観察すると、決して偶然にそうなるのではありません。秩序や組織が出来上がるためには、 その背後で必ず知恵が働いています。
したがって、それらは創り主なる神様の存在を認めないことには決して説明はつきません。人間の知恵をはるかに超えた 神の知恵で、花の種が造られたのです。最初に神が鶏を造られて、それが子孫を増やすようにされたのです。
なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造されたときからこのかた、被造物によって知られ、 はっきり認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。ローマ1:19〜20
偶然、自然で済ませていることの背後に、創り主の存在を認める必要があります。