060122
神様は生きて働いておられる
先日牧師室のソファーに寝転んで、ハーザー(キリスト教関係の月間誌)を読んでいたら、私の体験とそっくりの記事が 載っていたので、昔のことを思い出しながらここに紹介したいと思います。
それは1987年3月のことです。私が牧師として献身するために導いてくださった大阪の牧師に会いに行き、それから神奈川の 有名な教会の礼拝に出席してから、韓国で出会った京都の知人の家を訪問した時のことでした。そこの家の方から「鹿児島から電話が 何回か入っていて、あなたを探しているようでした。また、かかると思いますよ。」と言われました。
すると、直ぐ鹿児島からの電話がかかってきました。それは母教会の青年会のメンバーからで、内容は鹿児島教会の青年会の メンバーだったA兄が、白血病で危篤なので、彼が入院している名古屋の病院に行って、お祈りしてもらえないかということでした。 彼は私も良く知っている兄弟だったので、『わかった。すぐ行きます。』といって初めての名古屋に向かいました。しかし、 聞かされたのは病院名だけで、それが名古屋市内のどこにあるかは分からないと言うことでした。とにかく電車に乗って名古屋に 向かいました。病院が閉まるまでに何とか滑り込まないといけないと気があせりました。電車の中で彼の病気のこと、また病院に ちゃんとたどり着けるように必死で祈りました。
名古屋についてからは、何かに導かれているように電車を乗り換え、ある駅に降りました。そして、導かれるまま、ただ山手に向かっ て歩きました。すると直ぐ前方に○○病院という建物が見えてきたのです。いまもこんな奇跡があるんだと神様に感謝しました。
病院に着くともう閉まる寸前でした。良かった。これで彼のために祈ることができると、彼の病室に向かいました。しかし、 病室に着いた時、私は大変な事実を見逃していたことを思い知らされました。それは、彼の部屋の入り口に、大きな字で書かれた 『面会謝絶』の札を発見したからです。
尤もなことです。危篤状態なのに彼の部屋に入って祈れると思っていた私が間違っていたのです。私は彼の病気のこと、また病院への 道程のことなどで気が動転して深く考えられなかったのです。彼の病室の前の廊下には長いすが置いてあって、彼のお兄さんが 心配そうに座っていました。そこで、お兄さんから彼の病状のこと、彼がかなり危険な状態であることなどを聞きました。
しかし、しばらく話しているとお兄さんが『少し覗いて見ますか。』とドアを少し開けてくれました。ドアから顔を出して覗いても、 機械がたくさんあって彼の姿が余り見えません。すると、ちょっと入って見ますかと部屋の入り口に入れてくれました。すると今度は、 『ベッドのそばに行ってお祈りしてくれますか。』と言われたので、びっくりしました。彼のそばに行って見ると、彼は昔の面影は ほとんどなく、痩せてまるで別人のようでした。神様の導きだと信じ彼の癒しのために祈り、お兄さんにお礼を言って帰りました。
しばらくして、鹿児島に帰ってから、驚きの事実を聞かされました。それは、教会では彼の葬式の準備が進められていたそうです。 しかし、彼は急に元気を取り戻し、退院できそうだと言うではありませんか。神様はご自分の御業をなさる時、人を使われます。 神様が彼のために、こんな私を使って下さったことを感謝すると同時に、背後のたくさんの人々の祈りが神の御手を動かしたのだと 思います。
信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もし その人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ヤコブ5:15