060604
自転車泥棒
先週、玄関前の教会駐車場に見かけない自転車が置いてありました。近寄ってみると、かなり古い自転車で、前の籠はぼろぼろに なっていました。誰かが捨てて行ったのかなと持って、動かしてみると、まだ立派に乗れそうです。
以前に、高校生が「自転車が登校途中に故障したので、置かせてください。」と駐車場に置いて行かれたことがあったので、 しばらくそのままにして様子を見ることにしました。
しかし、一向に持ち主が現われる気配がありません。そこで、とりあえず駐在所にその旨を連絡しました。すると、数日後に 巡査さんが来られて、「持ち主が分かりました。盗難自転車のようです。今連絡を取っていますが、留守のようでまだ連絡が 着きません。」と言われ、そして「今回は盗難届けが出ていないので、そちらのほうに持ち主が直接受け取りに行かれることになると 思いますのでよろしくお願いします。」とのことでした。
その日の夕方になって、自転車の持ち主のお母様が、お礼にと自宅で取れたという、かぼちゃを2個持って、引き取りに 来られました。その方によると、高校生の息子さんが中名駅までいつもこの自転車に乗って行き、それから電車で学校に通っていた そうですが、先月、中名駅でそれが盗まれてしまったというのです。それで、皆で探して回ったけれども、見つからなくて がっかりしていたところだったようです。そしてお母さんが言われるには、この自転車はかなり古いぼろな自転車ではあるのですが、 息子さんは高校3年生なので、今更新しい自転車を買っても勿体無いということで、我慢して乗ってくれていたということでした。
中名駅から教会までは電車で一駅です。こんな良い子の自転車を勝手に取って、ここで乗り捨てていくその人に、ひとこと 言いたいのです。気軽な気持ちで取ってきたかもしれませんが、罪は生き物です。徐々に成長して、その罪が結果的には自分を 振り回すようになり、最終的には自分で罪を(犯さない様に)コントロールができなくなってしまいます。
また、私たちの中には神様から与えられた良心というものがあります。その良心が自分を責めるようになるのです。そこで人は 「誰でもやっていることだから。」とか「もう古いぼろな自転車だから」とか言い訳をして自分の良心をごまかそうとします。しかし、 罪は私たちの幸せのベースである心の平安を確実に奪っていくのです。
ちょうど今日のテレビで、今量販店や本屋での万引きがすごい勢いで増えてきていると言っていました。最初軽い気持ちで、 またゲーム感覚で犯した万引きの罪が、徐々に成長して、最後には自分の意思で止められなくなってしまうことを知ってほしいと 思います。
あなた方はこのことを知らないのですか。あなた方が自分の身を捧げて奴隷として服従すれば、 その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。 ローマ6:16
悪いことをして、世の楽しみを謳歌しているように見えても、罪の奴隷となってしまっては、本当の幸せを感じることはできないの です。皆、汚れた自分、ふがいない自分を嘆きながらも、罪に振り回される自分に決別できないで苦しむようになるのです。
しかし、神様はあなたに回復の道、罪の赦しの道を備えてくださいます。罪の生活を悔い改め、あなたを正しい道に導く神様に 立ち返りましょう。そうすれば、あなたは罪の赦しと心の平安をいただくことができるようになります。
そういうわけですから、あなた方の罪を拭い去っていただくために、悔い改めて、 神に立ち返りなさい。使徒3:19