メインページ メッセージ集>アドナイ・エレ061112

061112

内側が変えられる

私たちの教会では、礼拝が終わると、男性と女性に分かれて分級を行ないます。そしてそのあと、それぞれが掃除を始めます。会堂に 掃除機をかける人、会堂の椅子や机を拭いて回る人、母子室を掃除する人、トイレの掃除を始める人、玄関の靴箱や床を拭いている人、 子ども達も、「先生、祭壇の上に上がって机や椅子を拭いて良いですか?」と聞いてきて、かねては上がることのできない祭壇に上がって 嬉しそうに雑巾がけをしてくれます。

これらはすべて自主的に行っているのであって、強制ではありません。したがって、用事があって、掃除をしないで帰る人があっても みな一向に気にしません。皆、義務感でしているのではないので、一つ一つの働きが行き届いています。

先日の日曜日、私が昼食を摂って出かけようとしていると、何人かが残って、裏庭の草取り、玄関口の花壇の整備、道を隔てた 駐車場の周りの草刈り等をしていました。このような素晴らしい教会員の働きで、教会はいつもきれいに保たれているので、 感謝しています。

私たちは何でも強いられてするときは、喜びがなく重荷に感じます。そして、何でここまでしないといけないのかと不平不満が 出てきます。しかし、同じことでも自主的に取り組むときには喜びが湧いてきて、素晴らしい結果を得られます。

先日の分級の時、まだバプテスマを受けられたばかりの方が、次のような話をしてくれました。「以前は朝、奥さんが急いで出掛けて、 お茶碗が洗われてないのを見つけると、奥さんにひどく文句を言っていた。そして、たまに自分が洗うことがあっても、不満が いっぱいでぶつぶつ言っていた。しかし、近頃はそのようなことがあったら、自分からお茶碗を洗えるようになり、そして洗った後は とってもいい気持ちになれるのです。」

私は聞きながら、「おっ、早速クリスチャン効果が出て来始めたな。」と思いました。私たちは仕事でも勉強でも強制的にさせられる 時は不自由を感じ、全く喜びがありません。

今まで何回も書いてきたように、私は勉強が大嫌いでした。とにかく長い時間じっと机の前に座っているのがこの上もなく 苦痛でした。しかし、クリスチャンになってから、自分でもびっくりするぐらい、本を読むのが大好きになりました。牧師になった 今では何時間も机の前に座っていてもちっとも苦痛にはなりません。このアドナイ・エレを毎週書けるのも、作文が大嫌いだった以前の 私からは到底考えられないことなのです。

しかし、これが神様のやり方なんだと思います。神様は外からの戒めによって私たちを強制的に造り変えられるのではなく、私たちの 内側から働いて、心の動機を変えることによって、喜びを持って正しいことを選び取れるようにしてくださったのです。

私は彼らに一つの心を与える。すなわち、私はあなた方のうちに新しい霊を与える。私は彼らの からだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。それは、彼らが私のおきてに従って歩み、私の定めを守り行なうためである。 こうして、彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。エゼキエル11:19〜20

「石の心」とはかたくなな心のことであり、「肉の心」とは柔らかで従順な心のことです。今まで、私たちは正しいことが分かって いても、なかなか行うことができない自分を見てきました。しかし、神によって内側から変えられると、喜んでそれをしている自分を 見出すようになるのです。良く「クリスチャンになると、酒を飲めない。タバコを吸えない。日曜日には教会に行かなければならないから 大変でしょう。」と言われます。しかし、内側から変えられるので、酒を飲まなくてもいつも喜びがあり、タバコをやめたら、かえって 開放感を感じ、毎週教会に行くのが待ち遠しくなるのです。もしあなたがこのような体験をしたことがないのならば、是非同じ体験を して欲しいものです。


Previous(061105号)目次Next(061119号)

◇アドナイ・エレ トップへ

◇ホームへ戻る

集会案内 今週のひとこと 牧師紹介 地図 リンク集 ポリシー