061224
なぜ人を殺してはいけないのか?
今回は非常にショッキングな主題を掲げました。しかし、これは実際に、ある人が一人の少年に聞かれた質問として、ラジオを通して 話していたものでした。私はそれを聞いて、非常なショックを受けました。しかし、それと同時に、もし私がこのように聞かれたら、 どのように対応するだろうかとふと考えました。
また、それがもし、あなただったら、あなたが「なぜ人を殺してはいけないのか?」と聞かれたら何と答えますか。「そんなことは 聞くまでもない。当たり前のことだ。」と声を荒げますか?それとも、「人を殺すなと法律で決まっているからいけないんだ。」と 言いますか。
ラジオで話しておられた方は「あなたが殺されるのが嫌だったら、他の人だって一緒、だから人を殺してはいけない。」と答えられた ようでした。「なるほど」と思いながらも、もう一つ釈然としないものが残りました。それでは少年の答えにはなっていないように思えた からです。少年が真に聞きたかったのは<人間の尊厳>の問題だったのではないでしょうか。つまり、彼は「牛や豚は殺してもいいのに、 どうして人間はいけないのか?」と聞きたかったのだと思います。
しかし、この問題は<進化論>を標榜している日本人の考え方からは、答えを見出すのは難しいでしょう。進化論には<人間の尊厳> などはありません。またそこには、人間の目的や意義も見出せません。それはあくまでも弱肉強食の世界であり、弱いものや生産性のない ものは切り捨てられていく世界です。進化論では「進化の進んだ人間が弱い豚や牛を殺して、肉を食べて何が悪い」ということになるの です。さらには能力のない者、寝たきりの老人のように弱者や生産性のない者は切り捨てられてもしょうがない、役に立たない人間 だったら、殺してもいいということになってしまいます。
しかし、世界には<創造論>や、<進化論と創造論>を併記して教えている国もたくさんあります。だから、私たちも進化論 一辺倒ではなく、もっと広い視野で考えてみる必要があると思います。聖書には神様が人間を神の愛の対象として、また世界の 管理者として造られたと書いてあります。
そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、 空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地を這うすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。創世記1:26
我々のかたちにとは、神様は霊なるお方ですから、私たちを霊的な存在として造られたということです。神様はすべての動物の中で、 人間だけを特別な存在、すなわち神を知り、神と交わることができる霊的な部分を持った存在として造られました。だから人には宗教心が あるのです。もちろん他の家畜にはそのようなものはありません。
人は肉体をまとっている霊的な存在なので、肉体はいつか朽ちて行っても、私たちの本質、すなわち霊的部分は残るのです。私たちの 霊は無意識のうちにこのことを知っているので、天国と地獄を意識するのです。そこが牛や豚と人との決定的な違いです。
素晴らしいことに神様は私たちを愛しておられ、わたし達が再び神との交わりを待てるように、救い主を送ってくださいました。 それがクリスマスの出来事です。
すなわち、創造主なる神様を認めないで、勝手に生きていた私たち、永遠の滅びに向かっていた私たちを神の元に呼び戻してくださる ために、神の御子が生まれて来て下さり、救いの道を開いてくださいました。
神様が「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。(イザヤ43:4)」と言われ、一人ひとりを 大切な存在として生かしておられるので、私達が人の命だけでなく、自分の命さえをも勝手に左右することは赦されないのです。すなわち 人を殺す者はそれを造り生かしておられる神に重大な罪を犯すことになるのです。