070617
父の日に寄せて
私の父は終戦後、母と兄を連れて命からがら北朝鮮から引き揚げてきた引揚者です。父はそのときの苦労を文章にして残しておいて くれましたので、戦争を知らない私にも引揚者たちの苦労を幾らか思い図ることができました。
父は太平洋戦争中、今の北朝鮮と中国の間を流れる鴨緑江(おうりょくこう)のダム建設工事の技術者として働いていました。そして そこで、1945年8月15日の終戦を迎えました。引き揚げは北朝鮮内での移住が認められず困難を極め、多くの人が帰還を望みつつも 足止めを食いました。そのような時、朝鮮臨時政府から父とほか2名の技術者に出頭命令が出て、設計・建設技術者として満浦中学校と、 満浦女学校の設計を委嘱され、引き揚げの際は国賓待遇で開城(38度線国境)まで送り届けるからと要請されました。
しかし、無給での仕事のため、母の着物や持ち物を売って生活をしなければなりませんでした。それらの仕事から解放されたのは、 終戦後9ヶ月も経った翌年の5月でした。それから今度は朝鮮臨時政府の慫慂(しょうよう)でソ連司令部に父一人が、技術者として 出勤させられることになりました。しかし、そこでも無報酬でその地方の地図をロシア語で作成する仕事に当たらせられました。但し 昼食時は主計少尉の名刺を使ってソ連軍食堂で食事ができ、またそこでは日本人が一人なので人気があり、ソ連の兵隊がヤポンスキー、 ヤポンスキーと黒パンなどを呉れたので、これを持って帰って家族の夜食等にすることができました。
司令部勤務は一ヶ月余りで漸く皆と同じ生活に入れましたが、長期間一銭も金を貰えぬ仕事をしていたので、生活は大変苦しくなって いました。その頃になると、日本人のうちには栄養失調で餓死する人も出始めました。そんな時、朝鮮人の会社経営者で、大工道具一式を 貸してくれる人がいたので、大工仕事をしながら何とか食いつないでいました。そのような時、帰還の話が父に舞い込んできました。 もちろん大変危険を伴う仕事ではありましたが、喜んで引き受けました。それは、女性と子供がほとんどの出征軍人の家族10人を 連れて帰ってくれないかということでした。本来ならば唯一の技術者として帰還は困難な立場にありましたが、他の人の都合がつかなく なって回ってきた幸運でした。
そして、7月28日一団は移動を始めましたが、帰還は想像以上に困難を極めました。父と母は、兄と荷物を交代で背負って、女性 子供中心の一団の面倒を見ながら、毎日30〜40キロを歩き続けました。そして、川では流されないように皆で手をつないで胸まで 浸かって渡ったこともありました。そのようにして一団は、野宿を重ねながら南鮮を目指しました。
そして、出発して12日目ついに38度線を超え、米軍の支配化にある南鮮に入ることができました。皆の中に北朝鮮を脱出できた 喜びがこみ上げてきました。しかし、その間には子供をなくした人もあり、また南鮮に着いたとたんに亡くなった人もありました。
それからは、汽車での移動を続けつつ、各地で収容所生活を続けながら釜山まで移動しました。そして、終戦後1年以上経過した8月 22の夜、米国の輸送船で博多に向かいました。翌朝に博多に着きましたが、船内にコレラが出たということで上陸が許されず、船上で 3週間の足止めを食いました。そして9月13日ようやく日本の土を踏むことができました。一家が故郷、鹿児島の知覧に帰り着くことが できたのは、北鮮を出て51日目、1946年9月16日のことでした。
父はこれらのことをかなり詳しく書き残してくれました。それを読むたびに、戦争の怖さや醜さ、またそれは、人を変えてしまう 恐ろしさを持っていることを教えられました。今、日本人はこのようなことを知る必要があると思います。父の書き残したものを 他の人にも伝えて行きたいと思います。
もしあなたの敵が飢えていたなら、彼に食べさせなさい。渇いていたら、飲ませなさい。 そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善を持って悪に 打ち勝ちなさい。ローマ12:20〜21