070819
幸せな人生の秘訣\
私達の人生を幸せなものにするために、重要な要素として、罪の問題つまり罪責感からの解放、全き信頼を置けるものの存在、 愛されている実感が必要であることをお話しました。そして、先週は罪の赦しの体験を得ることについて考えましたので、今週は、全き 信頼の置けるものの存在について考えたいと思います。
私は小さい頃、父の仕事の関係で、屋久島で育ちました。当時屋久島は台風の通り道と言われるほど、大型台風が次々に襲って 来ました。私たちは川べりの公営住宅に住んでいて、台風のたびに床上浸水、床下浸水の被害を繰り返しました。
したがって、台風が接近すると少し高台にある小学校の講堂に避難しました。講堂に行くと近所の子ども達もたくさん避難して 来ていて、子供同士であばれまわって、結構楽しく過ごしていました。外は暴風雨、家は水浸しになっているかもしれないのに、そんな ことはお構いなし、とにかく友達と遊ぶのに夢中でした。
やがて、台風が通り過ぎて、家に帰ると家は汚水(当時トイレは汲み取りだった)や泥で、ベチャベチャになっていることもよく ありました。水道がないので、近くの井戸から水を汲んで来ては洗い流し、また汲んで来ては洗い流しを延々と繰り返さなければ なりません。どこの家庭にとっても大変な作業ですが、子ども達は特に不安を感じる様子もなく、楽しそうに加勢をしていました。
今考えると、子ども達は親に全き信頼を寄せていましたので、状況がどう変わろうと親が一緒なら、そんなに苦労だとか不幸だとか みじめだとか思わないで生活していけたのではないかと思います。
そのように人は信頼できるものがあるときは外的要因によって平安が奪われることはありません。この信頼も大きければ大きいほど 不安の入る余地はなくなるでしょう。しかし、子ども達も中学生、高校生となるにつれて、親の限界も見えてきて、小さい頃のような 強い信頼は置けなくなってしまいます。そして、それに応じて不安も増大していくのです。
ですから、人間に全き信頼を置くことは不可能です。人間は例え、どんなに権力を持っていても、経済力があってもおのずと限界が あり、全き信頼を置くことのできない弱い存在なのです。聖書には人間は羊のような存在だと書かれています。人がどんなに強がっても 1年先の事、いや明日の事、いやいや10分後の事でさえもどうなるか分かりません。あの強い大横綱、朝青龍が今うつ症状で部屋に 閉じこもっているなんて1月前に誰が想像出来たでしょうか。人間は彼に限らず、誰でも、どんなに強ぶっても所詮弱い 存在なのです。
羊は羊飼いによって導かれ、守られなければ一匹では生きて行けないように、人間も保護され導かれながら生きていくように 造られたのです。私たちが絶対的に信頼できるお方を知り、全き信頼を寄せるまでは決して心の平安を持つことはできません。
イスラエルの偉大な王ダビデは主への全き信頼によって真の平安を獲得しました。彼は全世界の支配者なるお方に全き信頼を置く ことの恵みを次のように語っています。
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、憩いの水のほとりに 伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、 わたしは災いを恐れません。あなたが共におられますから。詩篇23:1〜4
以前、ある方が問題を持って私達の教会を訪れました。彼は教会の人たちを見て、「このような、何の問題もなく幸せそうな人たち には、自分の苦しみなど相談しても分かってもらえない。」と思ったそうです。しかし、しばらくすると大きな問題を抱えながらも 幸せに過ごしている方々がいるのを知って、その基である主を信じて洗礼を受けられました。