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080511

母の日に寄せて

私の母は88歳で、今私たちと一緒に生活しています。今では認知症もかなり進んで、排泄や洋服の着替えも一人では儘ならないようになってしまいました。 母は身体が弱く「60歳まで生きられたら本望だ。」と言っていましたので、こんなに長生きできていることが分かったらきっとびっくりすることでしょう。

母はまさに波瀾万丈の人生でした。幸せな家庭に生まれ、両親に愛されて育っていたのに、彼女が小学校に上がる前に突然、愛情を注いでくれた母親が 亡くなってしまいました。そこで、小さい子どもを抱えて途方に暮れた父親が後添えをもらうことになったのです。

そして、お父さんは後添えとして来られた新しいお母さんとの間に二人の娘を儲けました。すると継母からの、彼女と妹達との明らかな差別が始まり ました。お母さんはお兄さんを恐れてきつく当たることができなかったので、いじめが幼い彼女に集中しました。それで、お兄ちゃんは彼女を守るために学校に 迎えに来て一緒に帰ってくれていました。

妹達はきれいな着物を着て、おいしいものを食べているのに彼女には与えられませんでした。特にお昼のお弁当は、妹達は卵焼きやおいしそうなおかずが いっぱい入っているのに、彼女はご飯に梅干しと漬物程度だったので、級友に分からないように蓋で隠しながら食べていたということでした。

やがて母は成人して、満州(今の北朝鮮)のダムで技術者として働いていた父と結婚することになるのですが、もちろん二人は面識もなく、当時のこと なので写真もなく、ただ生家を見に行って、ここで育った人と結婚するんだと思っただけでした。

そして、嫁いで満州に行くのですが、そこでは優雅な生活が待っていました。厚い給料袋はほとんど使われないで、どんどん箪笥に貯まっていきました。 父親からお金を送りなさい、こちらで土地を買っててあげるからと盛んに進められましたが、若い二人はそこでの生活が楽しくて、全く日本に帰るつもりが なかったので、そのままにしておきました。そして、そこで長男が生まれました。

しかし、日本の戦況は悪化して、ついに終戦を迎えます。すると今まで懇意にしていた満州の部下だった人にお金をだまし取られます。さらに、ソ連軍が 入って来て、そこら一帯を支配するようになりました。南鮮(今の韓国)の方では帰還が始まり、次々と日本への引き揚げが進んでいるのに、北鮮の方は ソ連軍から無給での使役をさせられ、どんどん生活に困窮し始めます。父は使役のない日に大工仕事や棺桶づくりをやり、母は持っていた着物を売りながら 細々と生活して帰還許可を待ちました。

しかし、父のような技術者はソ連軍にとっても使い勝手がいいのでなかなか帰還許可がおりません。ついに脱出を決行し1歳の長男を背負って、十数人の 仲間とともに逃避行が始まります。昼間は隠れて夜何十キロも歩き続けます。川を渡る時は流されないように皆で手をつなぎ、真っ暗な中を進みます。途中で 亡くなる人、死んだ子供を背負って歩き続ける母親等様々です。父と母も交代で兄を背負って、日本に向かって歩き続けます。お金はなく服はぼろぼろ、昔の 栄華は見るかげもありません。そのような苦しみの中で38度線を越えて、ついに日本に帰ってくることができました。

そのような母が晩年言っていた言葉は「水道があり、洗濯機があり、炊飯器がある生活ができる自分は幸せだ。昔の人は全部自分でしないといけなかった からね。」でした。きっと、苦労して他界してしまった自分の生みの親のこと、苦労した日々のこと思って言っていたのだと思いました。波瀾万丈の人生を 送った母には平安な余生を送ってほしいと思っています。

あなたを生んだ父の言うことを聞け。あなたの年老いた母をさげすんではならない。あなたの父と母を喜ばせ、あなたを 生んだ母を楽しませよ。箴言23:22,25

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