080615
父が出会った真実の愛
(作:牧師夫人 佐多多視子)
私の父は福岡県の豊前藩主の子孫で緒方家の次男として生まれました。しかし、加治家に嫁いだ父のお父さん(私の祖父)の姉さんに子供が与えられ なかったので、加治の姓を残すために、次男である父(生後3か月)は養子として加治家の籍に入れられることになりました。
父は加治の姓を名乗りながら生家で兄弟たちと一緒に成長しました。しかし、頼りにしていた生みの母は、父が小学校入学前に過労で他界してしまい ました。父が小学校に入学すると「お前だけ何で名前が違うんだよぉ〜」「お前は橋の下から拾われてきたんだろう。」などといじめを受けるように なりました。
もし、お母さんが生きていたら温かく、優しく「お前が将来食い扶持に困らないようにそうしたんだよ。」とか「名前だけ変えることをお父さんに渋々 承諾したけど、お前を絶対離したくないからこの家で育てているんだよ。」とか、慰め励ましてくれたことだろうと思います。
しかし、お母さんがいない今、その悲しみをどこへも持って行くこともできず、自分はこの家でいらない子として扱われたんだという思いだけを持って 成長しました。
父は旧制中学(今の高校)では、友達に「お前だけはどんなに勉強しても追い越せなかった。」と言われるほど常にトップの成績を収め、一生懸命 努力しながら大学への進学を夢見ていました。しかし、緒方の父から「お前を育てるために加治家から継いだ財産は全部使ってしまった。だから、大学へは やれない。」と断られてしまいました。
だから、私は三男の大学進学が決まった時、彼に「実の親にまだ物心がつかないうちに養子に出され、一生懸命頑張って良い成績が取れているのに、大学 進学を断念させられて就職せざるを得なかったお爺ちゃんのことを思って、大学に行けることを感謝しつつ一生懸命勉強してね。」と話しました。
さて、父は高卒で商工会議所に努めていましたが、後から入って来た大卒の人に負けまいと必死に勉強して資格を取得して所長になりました。定年後は、 保護司(刑務所から出所してきた人の自立を手伝う)となり、筑豊会会長として活動し、死後法務大臣から旭日章の表彰を受けました。
思えば父の人生は「自分はいらない存在だ」という低いアイデンティティーを持ちながら、自分を価値ある者、認められる者にしようと必死に頑張って 生きた生涯だったように思います。
父は他界する一週間前にイエス様を信じ、私の妹より病床洗礼を受けました。死の直前に本当の安らぎ、ありのままで受け入れてくれる神の愛に出会って、 神の御許に召されました。今では「なぜ自分だけ名字が違うのだろう?自分はいらない子だったのだ。」と苦しんだ日々も、成績が良かったのに実の親に大学 進学を断念させられた悔しさも、大卒の人に追い越されまいとして必死に勉強した日々も、完全に忘れて、平安の内に母と手をつないで主の御顔を仰ぎ 見ていることだろうと思います。
その時私は、御座から出る大きき名声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人と共にある。神は彼らとともに住み、 彼らはその民となる。また神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。 なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」黙示録21:3〜4