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090322

会堂の机

先日、私たちの教会の礼拝堂に机が入りました。今まで、椅子の後ろに、後ろに座った人が聖書を置ける程度の台が取り付けてあるのはときどき見ましたが、礼拝堂に机というのはあまり見たことがありませんでした。

礼拝堂に机を置くと、学校の教室や会議室のような雰囲気になり、礼拝堂というイメージが崩れてしまいそうな気がしていました。しかし実際、礼拝が始まると熱い聖書を開いて当日の聖書個所を見たり、ノートを取ってメモしたり、週報に載っている関連聖句を見たり、時にはそれに聖歌や賛美歌を開いたりとたくさん使うものがあります。

たいていはそれらのものを床に置いて、あれをとったり、これをとったりしながら使います。私たちの教会でも、私が講壇で礼拝メッセージをしていると、聖書を膝の上において開いたかと思うと、今度はそれをノートに変えて、膝の上で器用にメモします。そして、私が関連聖句の場所を言うと、今度は週報を取って開きます。

私が他の教会の集会に行った時も、足の下に分厚いチェーン式の聖書を置いて、手にはノートとペンを持って重要なことをメモします。聖書を開く必要があるときはノートを置いて聖書を取り上げ、膝の上で必要な個所をめくります。よく考えると、何だか、かなり不便を強いられているのに、今までの慣習で何となくやり過ごしてきた感があります。

そこで、原点に返って、改めて考えてみました。すると、礼拝が学校の授業みたいにノートをとったり、聖書に線を引いたり、メモしたりという感覚ではなく、講演会みたいに牧師のお話を聞くということに重点が置かれてきていたからではないかと思うようになりました。また、机を置くと場所をとるので、礼拝できる人数が少なくなるという問題点もありました。

しかし、私たちは聞くだけだったら、感動したり、分かったつもりになっていても、覚えているのはその時だけで、ほとんど忘れてしまいます。礼拝が終わって家に帰ってから、メッセージを思い出そうとしても、残念ながら思い出せるのはごく一部に過ぎません。

だから、私は礼拝でメモを取って、家に帰ってからもう一度確認して1週間の霊の糧として、しっかり自分の生活に生かしていただきたいと思い始めました。さらに、私たちの教会のように小さな教会は、礼拝に少ししか集まらないのにたくさんのいすを並べて置いておく必要もないように思いました。

そこで、余分な椅子を取り除き、机を入れることにしました。机は床と同じ薄い茶色で、パイン材で作っていただきました。また、コンサートやたくさん集まる集会時には折りたたんで仕舞えるように細工していただきました。

机が入ってからは、以前は教会学校の子供たちは床に座って、自分たちの椅子を机代わりにワークブックの問題を解いていましたが、今では普通にワークブックを机に広げて回答することができるようになりました。また、礼拝でも机の上で、聖書を広げ、ノートも開いてメモを取る姿が見られるようになりました。

まだ、机が入ったばっかりで結果は出ていませんが、みなが膝の上に聖書やその他もろもろのものを置いてメッセージを聞いていた頃に比べれば、格段に集中しやすくなっただろうと勝手に考えています。これから、一人ひとりが御言葉を学び、それを自分のものにして、恵まれた信仰生活を送ってほしいと思っています。

御言葉に心を留める者は幸いを見つける。主により頼む者は幸いである。心に知恵のある者は悟りのある者と唱えられ、その快い言葉は理解を増し加える。箴言16:20〜21
また、私があなた方に命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。私は、世の終わりまで、いつも、あなた方とともにいます。マタイ28:20

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