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090503

母の日に寄せてU こういう女性に私はなりたい

文:牧師夫人 佐多多視子

日本では嫁姑の中が悪いのは当然であるかの様な言われかたをしています。だが聖書の中にはそのようには書かれていません。日本人はそのような言葉に騙されてはいけないと思います。そのように思うことによって、神様の祝福をボロボロこぼしているのだと思います。

長男の嫁のお母さまは「佐多のお母さんに何でも尋ねるように」と言ってくださいます。とても感謝であるとともに身の引き締まる思いがします。親がクリスチャンであるということは有難いことです。三浦綾子さんがTV対談で言っておられましたが聖書のみことばに「あなたの父と母を敬いなさい。」とあるのは自分に神様の御言葉を教えてくださった親だから尊敬しなさいという意味なのですと。長男の家族が神様の御こころに沿った歩みをするように、孫たちが神様に祝福されるように助言し、導いていかなければと心しています。

私が結婚した時は私の母はまだクリスチャンではなかったのに、「佐多の御両親に何でも聞き、可愛がっていただく様に」と言ってくれました。自分の寂しさは横に置き、どうすれば私が幸せに生活していくことができるかそれだけを考えていてくれたのだと思います。

私たちの教会にお姑さんと暮らしておられる3人の御嫁さん方がいらっしゃいます。一人は結婚当初から、あとの二人は親の介護のために仕事を辞めて、関西から帰郷してこられた方々です。ご主人と共にそれまで築き上げてこられた職や生活を捨てて、親御さんの老後を見るために帰って来られたのです。私は鹿児島に嫁に来て、このような生き方を見るにつけ尊敬して止みません。そうすることが、ごく当然であるかの様な振る舞いにただただ頭が下がる思いがします。神様がこのことを喜んでご覧になっているに違いありません。彼女たちに言いたいのは「神様はあなたたちの祈りを真っ先に聞いてくださるよ。」ということです。

計らずも、これは神様の偉大なご計画の中にあったのだと今になって思うのですが、主人の父を最後まで看る事ができました。主人が献身すると同時期に父の具合が悪くなり、母の呼び出しに応じて車で父を、あっちの病院こっちの病院と連れて回りました。往診にも付き合い、泊まりも何日かして、やっと主人は親孝行ができたと喜びました。

父が亡くなって母が「父ちゃんを看るために洋明は会社を辞めて牧師になった様なもんだったね。」と喜んでくれました。その母と今一緒に生活しています。要介護4に認定されている母の姿を見ながら、物資のない時代に自分のことはさておき、一生懸命に男の子3人を育てて来られたご苦労を思わされます。

母の持ち服の中で何重にも継ぎの当たっている下着を私は大切に持っています。母の事で大変な時、それを見ることにしています。まだ押し入れに仕舞ったまま一度も出して見ていないのですが、「あそこにあれがある。辛い時に見よう」と思っているだけで、何とか頑張れています。毎日何が起きるか分からない。主人と何かと確認し、話し合いながら一人の人間の最後に付き合っています。

そして、これから私は、女の孫にはルツさんの話を聞かせて接したいし、男の孫には女性を外見で見るのではなく主への信仰の姿勢で見る様に言って接したいと思っています。それが神様の御こころに添った生き方で、祝福される道であるからです。「(主は」人が見る様には見ないからだ。人はうわべを見るが主はこころを見る。」Tサムエル16:7

人の幸せは愛による良き交わりの中にあります。愛し合い、仕え合って神様に喜ばれる交わりのある家族になれるように、愛を持ってお互いに仕え合って行きたいと思います。

わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財産を持っていて恐慌があるのに勝る。野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのに勝る。箴言15:15〜16

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