090531
安心安全ネットワーク
地域の安心安全ネットワーク会議なるものが設置され、委員として委嘱されましたので、先日その第1回の会議に参加してまいりました。そこには小中学校の校長先生、教頭先生をはじめ町内会長や民生委員の方々、駐在所長など約30名の方々が出席しておられました。
そして今回は発足第1回ということで、会議に続いてお互いの連携を深めるために、席を移して近くの料亭で懇親会が行われました。私の隣に座られた方は喜入支所のHさんと言われる方で、お話をするうちに、いつも朝の登校時に明るく元気にあいさつをしてくれる中1のAさんと、小5のY君のお父さんであることが分かり、さらに親しみを感じました。
また、私のちょうど後ろに小学校の校長先生、教頭先生、中学校の校長先生がおられたので、先生方とも親しくお交わりをすることができました。先生方とは学校でお話しする機会がありますが、私自身がなかなかこのような席に出席することがないので、ざっくばらんなお話ができ貴重な時間を過ごすことができました。
このような席では、皆さんがお酒を勧めてくださるのですが、「いや、私はいただきません。」といつもお断り致します。すると大抵「宗教の関係で飲まれないのですか?」との質問をしてこられます。そこで、キリスト教は「あれをしてはならない、これをしてはならない」という戒律の宗教ではないことを簡単に説明し、「そうではなくて飲みたいと思わないのです。」と話します。すると「昔からもともと好きではなかったんでしょう。」と聞かれますので、「実は私クリスチャンになる前は酒飲みだったのです。一番ひどい時はスナックのママから、『あなたは今月4日来なかった。』と言われたことがあります。」と昔を正直に告白しますと皆びっくりされます。
私は昔お酒好きの方に「お酒をやめるか、人間をやめるかだ。お酒を止めたら生きる喜びがどこにあるんだ。」と言われたことがあります。私も昔、酒飲みだっただけに言いたいことは分からないわけではありません。しかし、本当にお酒を飲むのを我慢しているわけではないのです。もう飲みたいと思わないのです。飲まなくても飲んでる時以上に楽しい生涯が送れているのです。お酒を飲むことによって、憂さを晴らしたり、胸の内にある悩みや苦しみを一時的に忘れようとする必要がなくなったのです。今は問題を天地の支配者なる神様に祈ることによって、平安をいただけるようになったので、それらの必要がなくなったのです。
聖書は私たちがあれをしてはならない、これをしてはならないとの戒律によって生きるのではなく、酒に酔わなくても楽しく生きられるように、内側から変えてくださると約束してくれます。そのことを今実感しています。
もし信仰生活があれをしてはいけない、これをしてはいけないと強制されているのであったら、何と不自由なことでしょう。しかし、だからと言って何でも自由にやって良いんだったら、それは自由ではなく放蕩です。真の自由を体験するためには、おのずと制限が必要です。しかし、それらの制限を強制されるのではなく、自分がそれをしたくなくなるのだったら、それが真の自由なのです。
クリスチャンになる前は、たばこやパチンコ、そのほか小さな悪癖や罪に対しても、意志が弱くてなかなかやめられなかった私を、内側から変えてくださり、解放してくださったのです。
私は彼らにひとつの心を与える。私はあなたがたの内に新しい霊を与える。私は彼らのからだから石の心(頑なな心)を取り除き、彼らに肉の心(従順な心)を与える。それは、彼らが私のおきてに従って歩み、私の定めを行うためである。こうして、彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。エゼキエル11:19〜20
社から帰る途中に、1杯ひっかけてから帰宅し、玄関先にはビール瓶や缶ビールが山積みされていて、食卓に着くとまだよちよち歩きだった長男が冷蔵庫からビール瓶を抱きかかえてふらふらしながら持ってくるという生活から、全く飲まない生活に変えられ、家庭の雰囲気や家計もずいぶん違ってきて、感謝しています。