090614
進化論教育の盲点
先日の新聞記事を見て、ついにここまで来たかと思わされました。それは茨城県の9人の連続殺傷事件で、殺人などの罪に問われた金川被告が公判の中で次のように言っているのを読んだからです。
「蚊を殺すのと人を殺すのは同じ。」「シマウマを食べるライオンは自分が悪いと思っているでしょうか。」「あなたたちは常識に洗脳されている。法や常識が正しいとは限らない。」
しかし、彼がこのように主張する土壌は日本には以前からあったのだと思います。犯罪者が「人を殺してみたかった。」「誰でも良かった。」という事件が近年頻繁に起きるようになってきた背景には、日本の進化論教育一辺倒の弊害が来ているように思われてなりません。
*イギリスのチャールズ・ダーウィンは海軍の調査船ビーグル号に乗り込み、1831年から1836年にかけて、世界一周航海を行った。その際に世界各地の多様な動物相を観察し、特にガラパゴス島での生物種の観測の結果、進化の着想を得たとされる。
1859年にダーウィンは自説をまとめた「種の起源」を著し、進化論を世に問うて大きな反響を得た。ダーウィンが進化の源泉として重視したのは《自然淘汰/Natural Selection》による《適者生存/Survival of the Fittest》だった。進化論の発表は社会に大きな衝撃を与えた。なんとなれば、これは突き詰めれば人間も他の動物と同様の存在に過ぎないとの主張であったからである。(インターネット「進化論とは」から抜粋)
進化論の考え方は所詮、人間も動物も変わらない。たまたま人間が環境に適した存在だったので優位に立ってきただけだということになります。だから、人を殺すのも牛を殺すのも基本的には一緒なのに、牛を殺した人は罪にならないで、人を殺した人は罪になる。そのような常識がおかしいと彼は主張しているのです。
さらにこの事は、人間同士の間でも同じです。適者生存の原理からすると、能力のない者、障害者、生産性のない老人は淘汰されるべきだとの理論が成り立ちます。つまり弱い者は滅びて行くのが自然の法則なのだとなってしまうのです。
しかし、進化論はあくまでも一つの仮説であって、真理とは認められていません。それなのに、日本の教育では、あたかもそれが真理であるかの様に学校教育の中に組み込まれ、子供たちの心に刷り込まれていくのです。
世界には<創造論>や、<進化論と創造論>を併記して教えている国もたくさんあります。だから、私たちも進化論一辺倒ではなく、もっと広い視野で考えてみる必要があると思います。聖書には神様が人間を神の愛の対象として、また世界の管理者として造られたと書いてあります。
そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地を這うすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。創世記1:26
我々のかたちにとは、神様は霊なるお方ですから、私たちを霊的な存在として造られたということです。神様はすべての動物の中で、人間だけを特別な存在、すなわち神を知り、神と交わることができる霊的な部分を持った存在として造られました。だから人には宗教心があるのです。他の家畜にはそのようなものはありません。ここに他の動物とは違う人間の尊厳があります。
人は肉体をまとっている霊的な存在なので、肉体はいつか朽ちて行っても、私たちの本質、すなわち霊的部分は残るのです。私たちの霊は無意識のうちにこのことを知っているので、天国と地獄を意識するのです。そこが牛や豚と人との決定的な違いです。
進化論からは人生で最も大切な「生きる目的」は出て来ないのです。ただ人を苦しめようが陥れようが、勝者になることだけが重要なのです。そこから、いじめられる人は自分が弱いからいけないんだという論理が出てきます。良心に従って正しく生きて、皆に評価されてもその人も認めてくれた人々もやがて死んで行きます。しかし、人の評価は神様がなさるのです。すべての人は1度死ぬことと死んだ後に裁きを受けることが定められているのです。
主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。箴言1:7