090621
無に等しい者を選ばれた
長男夫婦が住む千葉県の旭市に来ました。今回は彼らが通っている教会の婦人集会でのお話を頼まれていたので、何を話そうかと迷いつつ参りました。千葉に着くと息子が「牧師先生が私自身の証しを聞きたい。」と言っておられたと言ったので、昔の記憶をたどりつつお話の準備を致しました。
そこで、今回はそこでお話しした内容をここに数週間にわたって書かせていただきたいと思います。そこでは私がなぜ教会に行くようになり、クリスチャンになったのかを話させていただきました。
さて、私は男3人兄弟の二男として、生まれました。兄と弟は比較的真面目で、両親の言うことを聞いて良い子に育ちましたが、私は少し性格が変わっていたようで、いつも「ひねくれ者」と言われて育ちました。兄と弟は勉強を言われなくてもしていましたが、私は勉強が嫌いで、そういった意味でも両親の悩みの種でした。
私の小学校時代は良い時代で、宿題などというものはほとんどありませんでしたが、ただ夏休みと冬休みだけには「夏休みの友」、「冬休みの友」という宿題が出ました。そこで、我が家では午前10時までは遊びに行かないで家で宿題をするように、そしてその後、遊びに行くように決まっていました。
朝6時過ぎにラジオ体操に行くために友達が誘いに来ます。体操が終わると、家に帰って朝食を摂り宿題しなければなりません。兄と弟は体操が終わると家に帰っていましたが、勉強の嫌いな私は朝食を我慢してそのまま遊びに行っていました。ですから兄と弟は順調に宿題を済んでいくのですが、私は全く進みません。
母もある程度は大目に見ていましたが、休みが終わる頃になるとそうそういつまでも自由にさせておくことはできないので、私を座らせて宿題をさせ始めます。私にとってその苦痛たるや大変なものでした。勉強以前にじっと座っておくこと自体が耐え難かったのです。私が結婚してから、母が妻に「あの時はトイレも我慢して横に座っていた、トイレに行ったすきに逃げられるから。」と話したということでした。
やがて、兄は東京の明治大学に入ります。両親は私立大学への送金が大変だったようで、「大変だ。大変だ。」と言っていました。3男は、それを聞いて国立高専に行くことを決心しました。すると、次男の私にも、「お前を私立大にはやれないから勉強して国立大学に行って欲しい。」と言ってきたのです。両親ももう少し私の学力を考えて欲しかったのですが、わずかな望みにでも期待したかったのでしょう。私も自分の学力には聞かないで「うん。分かった。」と気軽に返事してしまいました。
しかし、それからが大変です。当時私立は受験科目が3科目なのに対し、勉強嫌いの私が受ける国立の理系は7科目もの勉強をしなければいけませんでした。ただでさえ学力が足りないのに、7科目もの学力を上げるのは大変です。それもじっと座ることさえままならない私にとっては。
やがて、両親の希望に従って、国立大を受験しましたが、落ちてしまいました。両親は浪人させてでも国立に行ってくれたら仕送りが助かると、淡い期待を持って浪人させました、浪人しているとき、浪人仲間が私に「西南学院という私立文系の大学に願書を申し込んだら、経営学科と商学科の2枚入ってた。一人で福岡まで受験しに行くのはさびしから、お前も一緒に受けに行ってくれないか?」と言ってきました。
国立理系を受験する私と私立文系とは、全く違うのですが、九州では1番難しい私立大学と言われているところなので、受かったらかっこいいかなと、「うん。良いよ。」と言って受けに行きました。結果は国立は滑って、この私立大学だけから合格通知をいただきました。
私の将来の希望とは大きく違いましたが、行く所もないしあまり人生のことを真剣に考えていなかったせいもあって、この大学に入学することにしたのです。やがて、このことを聞いた息子が「そんなことで人生を決めていいの?」と父親のいい加減な生き方に呆れていました。しっかりした目標を持って、それに真剣に取り組む者がそれを自分のものにすることができるのだと気づいたのはずいぶん後になってからでした。
幻がなければ、民は欲しいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。箴言29:18
人ははっきりした人生目標がなければ、だらだら時を過ごし、結局は何をも成し遂げることはできません。若い時にはっきりした夢を持ち、それを追いかける者は、必ずそれを手にすることができます。また、不正を行わず、正しい歩みをする者は、最後には祝福を受け継ぐのです。