090726
90歳おめでとう
先日、母がついに90歳の誕生日を迎えました。お祝いに義姉と弟夫婦が来てくれて、私たち夫婦と共に母が元気に90歳の誕生日を迎えられたことを感謝しました。
「90歳おめでとう」と書かれたケーキを母の前に置いて、皆でハッピーバースディを歌いました。オードブルとケーキを前にご満悦の母ですが、残念ながら認知症の母には自分の誕生日だとは分からない様子です。
母が認知症になるずい分以前のこと、妻が「『お母さん、誕生日おめでとうございます。』と言ったら、母は大そう喜んで『自分はそう言われたかったの。』と話されたのよ。」と言っていました。
そういえば、私たちが小さい頃、母の誕生日だけは、我が家にはありませんでした。いつも過ぎてから、「あれ、お母さんの誕生日は、もう過ぎたんじゃない?」と言うと、「私の誕生日はいいの。私が忙しい思いをするばかりだからね。」と冗談とも本気ともつかぬ感じで話していました。
私の小さい頃は、誕生日が楽しみでした。母が「誕生日は何がいい?」と言うと、決まって「ぼた餅」とか「ぜんざい」とか言っていました。当時ぼた餅とかぜんざいは貴重な食べ物で誕生日ぐらいにしか食べられませんでした。ですから、誕生日の数週間も前からわくわくしながら待ちました。当日になると、母はぼた餅とかぜんざい、その他ごちそうを長い時間かけて作ってくれました。
今考えると、家族の誕生日は、毎回お母さんだけが忙しい思いをしていたことを思い出します。それに、経済的にもそんなに余裕がなかったのでしょう。ですから、自分の誕生日だけでも削れたらいいという思いもあったのではないかと思います。
今みたいに、レストランとかがあるわけではありません。お祝いの度に母だけが一人で忙しい思いをしていたのに、私たちは余り加勢をしないで遊んでいたのを申し訳なく思います。子供たちはみんな男の子で、当時は「男子厨房に入らず」とまではいかなくても、まだまだそのような気風がどこの家庭にもありました。そこで、母が「子供たちの内に一人でも、女の子がいたらよかったのに。」とこぼしていたのを思い出します。
また、母は小さいころ実母をなくして、継母に育てられました。後から生まれた妹達との明らかな差別を受けながら、妹達と違って誕生日を祝ってもらうこともなかったのでしょう。ですから、妻から「お母さん、お誕生日おめでとうございます。」と言われたのがことのほか嬉しかったのだと思います。
私たちが成人してからは、それぞれが母の誕生日にブラウスやスカートなどを送ってお祝いしていました。しかし、一緒に集まって母の誕生日をお祝いするというのはそれぞれが家庭を持ち、忙しくなってからは、なかなかできませんでした。今思うと母は物を送ってもらうより、「お誕生日おめでとう。」と皆に祝って欲しかったのかなと思います。
それなのに、今はもうみんなで「ハッピーバースデー」を歌っても、「お誕生日おめでとう。」と言っても、分からなくなってしまいました。自分の家族が集まっていることさえ分からないで、たぶん何時ものディサービスの人と一緒に食べているような感覚でいたのだと思います。
ただ、母は自分の母が早死にし、自分の家系が早死にの家系だったとかで、「私は60歳まで生きられたら、それで本望。たぶんそんなに長くは生きられないと思う。」といつも言っていました。それなのに、認知症で分からなくはなりましたが、90歳まで元気で生きられて本当に感謝です。まだまだ身体は元気で、自分で箸を使って食事も食べられるし、ディサービスにも嫌がらずに行ってくれています。
感謝なことに、母は今私たちと一緒に住んでいるので、教会の礼拝時の挨拶で、教会員一人ひとりが母の手を握って笑顔で挨拶してくださいます。また、ディサービスやショートスティの方々も、何も分からない母を、皆優しく受け入れてくださり、とても有難く思っています。皆の愛と優しさに触れて、母の表情がどんどん明るくなり、いつもニコニコして笑顔が似合うおばあちゃんになりました。
母は本人が予想もしなかった90歳まで生きられて、温かい人々に囲まれ、幸せな晩年を過ごせていることを感謝しています。
家族、教会の方々、ディサービスやショートスティの方々、本当にありがとうございます。母に代わって心からお礼申し上げたいと思います。
あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。 私は主である。レビ19:32
「あなたの父と母を敬え。」これは第1の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたは幸せになり、地上で長生きする。」という約束です。エペソ6:2〜3