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090920

家庭での役割

毎朝6時50分、市から支給された制服制帽を身に着け、児童通学保護員として、街頭に立ちます。子供たちが通学してくる時間は大体7時頃から7時50分までの 間です。横断旗をもって登校してくる子供を待っていると、川向こうのH君が両手にゴミ袋を抱えて、交差点の横にあるごみステーションに向かって橋を渡って 歩いてきました。私が彼に向かって「おはよう」と叫ぶと、彼がこっちを向いてニコッと笑って「おはようございます」と挨拶しました。

子供たちが家庭の役割を担って働いている姿を見ることは、なんとすがすがしく、喜ばしいことでしょうか。この頃このような姿をあまり見かけなくなってきて、 少し寂しく感じていたところだったので尚更です。

私の子どもたちもゴミ出しを担当してくれました。3男が中学生の時には、教会のごみ分別が間違わずにできるように、分別ごみの仕分け方を紙に書いて張り出して いました。教会はいろいろな地域から人々が集まってくるので、皆に分かるようにと、彼なりに工夫した結果でした。

彼らが高校に通うようになり、学校に行きながら片方に鞄、片方にゴミ袋をもって家を出て、近くのごみステーションにポイとゴミを放り込んで駅に向かう姿を、 二階の窓からよく眺めていました。

私はH君の家庭みたいに、どこの家でも子供たちがゴミ出しの担当をしたらいいのにと思います。責任さえ与えたら、子供たちはそれなりに如何にしたら上手く できるか考えて、結構いい仕事をするものです。分別を間違えたら子供に怒られるぐらいの真剣さと責任を持たしたらいいのではと思っています。

私たちが小さい頃は、当然のごとく家庭の中に役割分担がありました。私たちが小学生の頃は、田舎だったこともあって、どこの家にも水道がありませんでした。 ですから中学生の兄は学校に行く前に近くの共同の井戸から水を汲んで来てから登校していました。しかし、近所にある井戸は海の近くだったこともあって塩分が濃くて 飲み水にはできませんでした。そこで、小学生の私と弟は、学校が終わると飲み水を汲みに小さなバケツやビンを持って、近所の子どもたちと学校の水飲み場まで汲みに 出かけていました。

また、その他にも子供たちにはいろいろ役割分担が決められていました。私は鶏の世話係だったので、鶏小屋の中を掃除したり、鶏のえさを取りに行ったりしました。 だから、いまだに道を歩いているとき、鶏の好きな草が目に入ると、ふと当時を思い出します。また、卵の殻が柔らかくならないように海岸から貝殻を取ってきて砕いて 食べさせたりもしました。責任を持ったらそれなりに工夫して役割をこなしていました。

現在私は、各地で家庭教育の講演会をさせていただいております。そして、子育てには、子供たちを愛し受容していく保護の部分と、年齢に応じて訓練をし、やがて 社会に貢献できる人材に育てていく自立の部分があることをお話しさせていただきます。現在、多くのご家庭で保護に関しては必要以上に力を入れておられて、かえって 過保護が社会的問題になっているほどですが、一方家庭の中で子供たちに役割を与えて、責任感を持たせ訓練していく自立の面が昔に比べてかなり疎かになっているように 感じます。そのことが今、大人になっても満足に働けない成人が増えてきたと言われるゆえんではないかと思います。

次男が高校の時、担任の先生が、家庭で役割を持って仕事している生徒は、勉強においても段取りがいいと言っておられました。なるほどと納得させられる お話でした。

ユダヤの諺には「子供に仕事を教えないことは、泥棒を教えるのと同じだ。」と言うのがあると聞きましたが、子供が大人になってまごつかないように、子供の ためにも年齢に応じた訓練をさせて見られたらどうでしょうか。必ずやがてはその子の益になるものと思います。

若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。箴言22:6
怠け者の欲望はその身を殺す。その手が働くことを拒むからだ。箴言21:25

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