091220
クリスマスの思い出
私の子供の頃、私の家庭でもクリスマスの行事をしていましたが、真のクリスマスの意味が分からないまま、行なわれていました。当時の私にとってのクリスマスはサンタクロースからプレゼントをもらえる日でした。
小さい私は、寝る前に枕元に靴下をぶら下げて、わくわくしながらサンタクロースが来るのを待ちました。しかし、どんなに我慢して起きていてもいつの間にか眠ってしまって、いつもサンタクロースに会うことができませんでした。そこで、ある年作戦を考えました。それは寝るとき布団から手足を出していてサンタクロースがそれにつまずいて私を起こすようにするという計画でした。
当時はエアコンなんてありません。家には小さな火鉢が1個あっただけですから、手足がかなり寒かったのを覚えています。しかし、それを我慢して手足を出していると、母から「何してるの風邪ひくよ。」と言われましたが、サンタクロースに会うためなら致し方ありません。しかし、残念ながらサンタクロースは引っかかってくれませんでした。
それでも、あくる日にコマやビー玉やトランプなどを靴下の中に見つけては、サンタクロースのことは忘れて、はしゃいでいました。これらのプレゼントは今の子供たちには相手にされないようなささやかなものでしたが、当時の私は素晴らしい喜びに浸ることが出来ました。
しかし、後に知った本当のクリスマスはそれと比較にならないほどの大きな喜びを与えてくれるものだったのです。つまり、「本当のクリスマス」というのは、暗闇の世界に、暗闇の中にいる一人ひとりの心に、また問題や苦難に打ちひしがれている私たちの心に光が差し込む、問題が解決する、心に喜びが戻ってくることだったのです。
このようなお話を聞きました。ある大学祭で、『これが人生だ。』と書いた部屋があったそうです。中に入ると紐が1本、片隅からもう片隅まで張ってあって、それにたくさんの靴がぶら下げられていました。『何でこんなのが人生だ。』と言うと、『人生は苦痛(靴)の連続だ。』と言われたそうです。それは最も楽しそうにしている大学生でさえも、人生苦労が多いと知っているからでしょう。
そうです。クリスマスは、この苦労の人生、暗闇の中に光を照らすために、神のみ子が生まれて来てくださったことをお祝いする日なのです。ですから、皆さんが街角でよく聞くクリスマスソングは、その喜びを歌っているものです。
☆いざ歌え、いざ祝え、うれしきこの宵、神のみ子現れぬ、いざ褒め称えよ。
☆聖しこの夜、星は光り、救いの御子は、まぶねの中に、眠りたもう、いとやすく。
☆悪魔のひとやを、打ち砕きて、とりこを放つと、主は来ませり、主は来ませり、主は、主は来ませり。
この世の旅路を、照らしたもう、妙なる光の、主は来ませり、主は来ませり、主は、主は来ませり。
すなわち、クリスマスとは、私たちが苦しみや問題から解放される為に、神ご自身が神の御子を、人としてこの世に遣わしてくださったことを喜ぶ日なのです。そして、私たちがこの神の愛と救い主を受け入れるとき、様々な重荷から解放され、全く新しくされた自分を発見することになるのです。
以前、私は営業マンとして働いていました。その当時は、救い主の話なんてお伽話ぐらいにしか考えていませんでした。しかし、ある時、聖書の御ことばに触れ、これらのことを信じたのです。するとその時、これが真実だと分かったのです。すると、私の内に変化が起きました。人生の重荷が取り除かれたのです。神の愛が心に流れ込んできたのです。心の底から喜びが湧き上がってきました。
そして、「今日1日は今までの1カ月よりずっと素晴らしい。」と叫びました。こんな素晴らしい毎日を過ごせるのだったら、もっと早くこのことを知っていたらよかったのにと思いました。その時点で、私は牧師になって、罪に苦しむ人々に、この素晴らしい福音を知らせて行こうと決心しました。ぜひ一人でも多くの人々に、おなじ喜びを味わっていただきたいと思います。
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」ルカ2:10〜11
暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。マタイ4:16