100502
愛し合う社会を求めて
先日、妻とキリスト教センターに、小学校の本読みボランティアで読み聞かせる為の本を探しに行きました。その帰りに中央駅近くにある○○亭なる料理屋さんに 久しぶりに昼食のために入りました。
ここは子供たちが近くの高校に通っていた当時、高校の保護者会等があると、時々利用していたお店で、800円代で新鮮な魚料理のランチが食べられるだけでなく、 セルフサービスでコーヒーがいつでも自由に飲めるようになっている、コーヒー好きな私にとって楽しみなお店でした。
店に入るとカウンターがあり、その前が水槽になっていてイカやフグなどの魚がいつも泳いでいます。さらにその中央に直径約1メートルほどの円柱状の水槽があり、 そこからは常に水があふれており、周りの水槽に流れ出しています。
先日立ち寄った時にはその水槽の上の方を鯵やカワハギが泳ぎまわっていて、底の方では2匹の伊勢えびが動いていました。伊勢えびの1匹は大きく、もう1匹は その半分ほどの大きさで、小さい方の伊勢えびが器用に背中の方からピューッと移動しているのが見えました。
お食事をいただきながら、伊勢えびは目が付いていない後ろに向かって、あんなスピードで移動するなんて、かえって危険じゃないのかしらと思って見ていました。 しかし、よく見てみると何だか好き好んで早く動いているのではないようです。どうも、大きい方の伊勢えびに追われて逃げているように見えました。
確かに、狭い水槽に入れられて海老たちもストレスがたまることでしょう。しかし、だからと言ってほかの海老をいじめることはないでしょう。遅かれ早かれ、近い 将来に2匹とも料理されてしまう運命にあるのです。せめてそれまでの間、助け合って仲良く過ごしたら良いのにと思いながら見ました。
そう思って海老たちを見ているうちに、神様も私たちを同じように見ておられるのではないかと思い始めました。人間の齢は約70〜80年、長く生きられても 100年です。この短い貴重な期間を、憎み合い、いがみ合って、人を苦しめて生きるような愚かなことはないのではないでしょうか。
先日キリスト教センターから借りてきた本の中に、「わたしのいもうと」というのがありました。それは主人公の妹が4年生の時、転校した学校で、恐ろしいいじめが 始まったというお話でした。言葉がおかしいと笑われ、臭い、ブタと言われ、ちっとも汚い子じゃないのに、妹が給食を配ると受け取ってくれないというのです。
そして、とうとう誰も口をきいてくれなくなり、遠足に行った時も妹は一人ぼっちでした。やがて妹は学校へ行かなくなり、家にいてもご飯も食べず、口もきかず、 ただ黙ってどこかを見つめ、お医者さんの手も振り払うようになりました。
お母さんが抱きしめて、抱きしめて、一緒に眠り、子守歌を歌って、やせ細っていく妹に、ご飯も無理やり食べさせていましたが、ついに死んでしまいました。やがて 彼女の部屋から1枚の紙切れが見つかりました。それには「私をいじめた人たちは、もう私を忘れてしまったでしょうね。遊びたかったのに、勉強したかったのに。」と 書かれてありました。
これは作者のもとに届いた1通のお手紙を本にしたものでした。私はこのような現実が楽しいはずの小学校で起きていたことに深い悲しみを覚えました。軽い気持ちで 行われるいじめが一人の人を死に追いやるほどの重い罪であることを強く考えさせられました。
それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つ ようになるのです。・・・こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。 ローマ14:10,12
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。Tペテロ4:8