110313
大自然の前の人間の非力さ
私が小学生のころは川べりに住んでいました。家のすぐ前が堤防でその先は砂浜になっていました。そこは河口に近かったので、潮が満ちると砂浜の一部は水で 覆われてしまいました。
私は潮が引いた時、時々そこに砂で船を作りました。潮が満ちてくる方に向かって砂を積み上げ船首を作り、城壁のように船の側面も船尾も砂を積み上げしっかり壁を 作りました。
やがて潮が満ちて来て徐々に船の周りを水が囲み始めます。何とか持ちこたえた砂船は水の中で、まるで水に浮かんでいるように見えました。しかし、そのうち船の 側面から水が入り始め、少しずつ船の形が崩れ、そのうち見えなくなります。潮が引いてから見てみると、何にもなかったかの様に砂浜は元通りになっていました。
先日は北陸の太平洋岸沖で日本観測史上最大M8.8の大地震が発生しました。地震によって起きた津波が、沿岸地域の町々を押し流し、町は壊滅状態になって しまいました。さらに地震は地球の裏側の南米のチリにまで達したというニュースが流れ、その規模の大きさに驚かされました。
東北太平洋沿岸で起きた地震の被害、それによって起こった津波による被害は甚大で、映し出された東北地方の海べりの町々の映像には、船や家々、それに沢山の車が まるでおもちゃが流されるように濁流に翻弄され、押し流されて行く様子が映し出されていました。
津波が引いた町々は、波できれいに舐めつくされ、賑わいを見せたであろう商店街や日々の生活の基盤となっていた家々が跡形も無くなり、ただ荒涼と広がる平地と なり、一方には車や家の残骸が積み重なり、無残に打ち壊された瓦礫の山が広がっていました。
苦労して建てられた念願のマイホーム、大切にしていたマイカー、家の中に飾られていた調度品や家具等が見る影もなく、ただの残骸として放り出されている姿は 見るに忍びません。
家を失い、車や家財道具を失い、職場を失った方々の心痛はいかばかりかと思いますが、同時に今まで苦労して築きあげて来られたすべての物を一瞬のうちに失う 怖さや悔しさは計り知れないものがあろうと思います。
それにしても、人間の長年の労苦を一瞬のうちに呑み込み跡形もなくしてしまう自然災害の怖さを見る時、自然の前での人間の無力さを痛切に感じざるを得ません。
私たちはともすると自分の能力に頼り、あたかも何でもできるかのように錯覚して仕舞がちですが、一旦自然災害等の思わぬ出来事に遭遇したり、また突然の病を 宣告される時など、所詮人間の力は弱く、かねての自信は脆くも崩れ去る力のないものだと実感させられます。
イエス様はそのような人々を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てていると言われました。弱い存在の羊は真に頼れるべき方、羊飼いにより頼んでいくことに よって、初めて平安で祝福の日々を送ることが出来るのです。
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを 生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。 詩篇23:1〜4
人間にとって、自分の弱さを認め、真に頼れるべき方により頼んでいく姿勢はとっても大切だと思います。真に頼れるべきお方、天地万物を造り私たちを生かして おられる主なる神様を一人でも多くの方が知ることが出来ますように願っています。