110424
恵みによる罪の赦し
私は男3人兄弟の次男として育ちました。小さいころから私だけが、ひねくれ者、変わり者と言われて育ちました。他の2人は親の言うことをよく聞くし、勉強も できたのですが、私は大の勉強嫌いで、家庭の規則もよく破って怒られていました。
しかし、私自身は友達も多くて、みんなに好かれているし、私みたいな良い子はそんなにいないと思っている自分大好き人間でした。
それが親元を離れ、大学に行くようになると私の本性が現れてきました。大学では学生寮に入ったのですが、入学して間もなく大学の授業に行かなくなり、いつも寮で ブラブラしていたので、いつしか「寮の番人」と言われるようになってしまいました。
そして、2,3年生になると今度は外での遊び癖がついてきて、昼はパチンコ、夜は居酒屋・スナックと遊び呆けるようになってしまいました。
行きつけのスナックでは閉店した後も従業員と一緒に店に残って飲んだり話したりし、その後すこし仮眠して、みんなで早朝ボーリングに出かけたりして いました。
やかましく言う親が近くにいないので毎日自堕落な日々を過ごして、親から送ってくる寮費なども徐々に使い込むようになり、家にはしょっちゅう学校から督促状が 行くようになってしまいました。
そんな時、ふと我に帰るといつまでもこのようなことをしていていいのか、自分はどうしょうもない馬鹿で悪い人間だなとやっと思うようになってきました。
そして私は、必死で働いて私の学費を出してくれている両親が、私の日々やっていることを私の目を通して見ていたら、どんなに悲しむことだろうかと考えるように なりました。
しかし、一度付いた遊び癖は簡単には治りません。心では真面目にしようと思い、固く決心していても、また同じようにしてしまう弱い自分を何時も見出す のでした。
そこで、自分は良い人間だと思ってきたけど本当は罪深い人間なんだ。心の内には真面目に生きたいという思いがあっても、自分でそうすることが出来ない 弱い醜い人間だと初めて思うようになりました。
しかし、やがて聖書を読むようになって私だけではなく、すべての人が聖い神の前には罪人であり、すべての人の内に罪の性質が宿っていることを知りました。 そして、私たちは自分の努力や決心ではそれを克服することが出来ない存在であることも分かりました。
私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしている のであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が 宿っているという原理を見いだすのです。ローマ7:19〜21
人が罪を犯すと罪が私たちを蝕み、私たちの心の平安や喜びを奪っていき、私たちを不幸にし、そして皆永遠の滅びに向かっていくことを聖書は教えていました。
それでは、どうしたらいいのだろうかと絶望している私たちに、聖書は救いの道を示して下さいました。
それは、神のみ子イエス・キリストが人となって生まれて来てくださり、私たちの身代わりとなって、十字架で私たちの全ての罪を清算してくださり、救いの道を 開いてくださったということです。
私が罪を悔い改めて、イエス様が私の罪を負って十字架で清算して下さったことを、ただ信じた時、今までの罪が赦されたことが分かり、心に何とも言えない平安と 喜びが入って来ました。そして、罪が除かれてはじめて新しい歩みをすることが出来ました。
すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 ローマ3:22〜24
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 これらのことはすべて、神から出ているのです。Uコリント5:17〜18