110605
自分を客観的に見る目
先週書かせて頂いたように、梅雨にしても見る視点、自分の置かれた状況に応じて、「いやな雨」とも「恵みの雨」とも取ることができます。そして、ともすると 私達は自分の視点で、自分の都合に合わせて全てを見て、不平不満を漏らしてしまいがちな者だと思います。
かなり以前のお話ですが、ある方がこのようなお話をされました。朝、狭い路地を車で走っていると、近くの女子高の女学生が道を広がって歩いている。それを見て、 「学校はどんな教育をしているんだ。」と思いながら運転をする。
しかし、ある時彼がその道を歩いていると車がクラクションを鳴らしながら走ってきた。それを見て、「なんでこんな狭い路地を車が通るんだ、危ないじゃないか。」 と思いながら歩いた。
そのように私達は自分の都合によって物事を見るものだという事をその方は教えて下さったのだと記憶しています。
確かに私達は自分の視点でしか物事を見ようとしない身勝手な生きものなんだなと、自分の行動を省みつつ、いろいろ反省させられました。
私達がまだ鹿児島市の谷山地区に住んでいた時のことです。その当時は桜島の活動が活発で、しょっちゅう降灰に悩まされていました。ある時、高校生だった長男が 家の窓を開けて外出しました。すると、突然の桜島の噴火と、谷山方面への風向きによって、大量の降灰が私達の住んでる地区を襲いました。灰は部屋の中に入り込んで、 床から机、本棚までも積もった灰でざらざらにしてしまいました。私は彼の帰りを待って、窓を開けて外出した彼の責任を追及し、彼に部屋の掃除を命じました。
それから数週間たったある日、素晴らしい上天気に窓を開け放し、きれいな空気を部屋に入れました。そして、ちょっと用事で出かけました。すると、その間に桜島が 噴火して、西風が降灰を家の中に運び込みました。そして、数週間前と同じように部屋中が降灰でざらざらになってしまいました。
私はいやいや掃除しながら思いました。こんなにしょっちゅう降灰に悩まされるぐらいなら桜島ごと何処かに持って行ってくれ。噴火した桜島を見て観光客は喜ぶ かもしれないけど、もう私達はうんざりだと。
そして、考えました。長男の時は部屋が汚れた全責任は長男だったはずなのに、自分の時は私の責任ではなく桜島の責任になっていて、私は可愛そうな被害者に なっている。非常に自分勝手だなと。
しかし、こんなことって私達の周りで日常茶飯事に起こっていることだと思います。私達は人の欠点や間違いには非常に敏感で厳しいのに、自分のことはからきし 見えていないのです。
イエス様はそのことを次のように教えられました。
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの 目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。 そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。マタイ7:3〜5
私達は他人の目の中にある小さなちりに気付き、「あなたの目にはちりがありますから取ってあげましょう。」と言うが、自分の目の中にある大きな梁(屋根の重みを 支える横柱)には気づかないものなのです。つまり、イエス様は、人の小さな欠点を見て注意する前に、自分にある大きな欠陥に気付き、まずそれを直しなさい、その後 初めて人の欠点を直してあげることが出来るのですと教えられたのです。