111002
敬老の日に思う
私の父は1級土木師の免許を持っていました。そして、田舎に行って道を造ったり、橋を架けたり、港湾の整備等を行う事に生き甲斐を感じていました。その影響で 私たち家族は田舎暮らしを強いられることになりました。
今年92歳になる母も苦労の連続の生涯でした。満州の鴨緑江でダム工事の技師として働いていた父と結婚し、しばらくして長男を出産、そして終戦を迎えます。 ソ連軍が侵攻して強制労働に父が駆り出され、花嫁道具として携えてきた着物類を売って生活をし、やがて十数人が一団となり、父が責任者となって日本への逃避行が 始まります。
そして苦労の末、1年以上の月日をかけてようやく日本に辿り着きます。やがて父は自分の技術を生かし、開発の遅れた田舎での活動を志し、家族を伴って種子島、 屋久島へと渡ります。家族が屋久島に来た時は、水道はおろか電気さえも来ていないような状況でした。
父は何度も来て事情は知っていたのでしょうが、母にはそこらの事情は全く知らされていませんでした。私も小さい頃はランプの火屋(ホヤ)を磨く手伝いを しましたが、薄いので良く割ってしまいました。火屋とは、ランプの灯をおおうガラス製の筒のことで、煤で黒くなるのでしょっちゅう磨く必要がありました。
洗濯はたらいに水を張り洗濯板の上で1枚1枚擦って洗います。水道がないので水の補給が大変です。また洗濯物を絞るのは一層の力が必要でした。また、ご飯を 炊いたり、料理をするためには薪が必要です。母は薪を集めるために海に行き、流木を集めて来て燃料としていました。
食器を洗う時は数軒先の共同の井戸に行き、そこで水を汲み、近所のお母さん方と話しながら楽しそうに洗っていました。ただ井戸水は海が近いので塩分が入り、 飲み水としては使えないので、学校の水汲み場まで私たちが汲みに行っていました。学校には山の水を引いて来てあったからです。
お風呂は父が家の横に造ってくれた仮設の五右衛門風呂でしたが、台風などで屋根に穴が開いた時は、雨の日に傘を差して入ったこともありました。温度調節も 難しく、桶で水を足したり火をくべたりと苦労しました。
それから、子供たちが病気になった時が大変でした。父は現場に行っていたり、工事の申請や許可を戴くために鹿児島市に出張していることが多かったので、母は 小さい身体で子供を背負って遠くの病院まで長い道を急ぎました。
しかし、これらの苦労は私の父母だけでなく、私達の親の年代の人々は皆、同じような体験をして来られたのです。父が良く「この道もあの橋も空港も皆私が 造った。」と私達に自慢していました。
父はただ企画し申請して造らせていただけなのでしょうが、そのような働きがあって今の私達の便利で豊かな生活があることを思うと、この様な基盤整備を日本の 各地で築いてくれた先人の苦労を心から感謝したいと思います。
今は電気が付いて当たり前、水道があって当たり前、洗濯は洗濯機がしてくれますし、ご飯も炊飯器が焚いてくれます。お風呂もボタン一つで何時でも好きな時に 入れますし、風呂の温度調節も自由自在です。また、コンビニやスーパーのお弁当までも、昔だったら遠足か運動会の時ぐらいしか食べられなかったような豪華なものに なりました。
このような恵まれた生活の礎は今の高齢者と言われる年代の人々が苦労して築きあげて下さったものです。そのようなことを思いつつ、父や母また高齢者の方々に 心からの感謝を捧げたいと思います。
あなたを生んだ父の言うことを聞け。あなたの年老いた母をさげすんではならない。真理を買え。それを売ってはならない。知恵と 訓戒と悟りも。正しい者の父は大いに楽しみ、知恵のある子を生んだ者はその子を喜ぶ。あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。 箴言23:22~25