120205
足を洗い合いなさい
昨年、韓国の学生さんが突然、自転車で九州一周をしているので泊めて欲しいと言ってこられたことがありました。言葉が通じない外国での旅は心細いだろうと 教会の母子室に泊めてあげて、簡単な食事を提供し、明くる日無事を祈りつつ送り出しました。
思えば日本の道路は国道から県道、はたまた片田舎の小さな路地に至るまできれいに舗装されていて、自転車で走り回るのには最適で、快適なのだろうと思います。 北海道から九州最南端の佐多岬まで自転車で日本縦断をされる方がよくおられますが、これもしっかり舗装された道路が整備されているからだろうなと思います。
数年前アフリカを訪れた時は、幹線道路を少し外れると土埃の舞うデコボコ道で、車に乗っていてがたがた揺れるのを久しぶりに体験して懐かしさを覚えました。
日本も私が小さい頃は田舎で育ったせいもあったのですが、町中舗装道路なんてほとんどありませんでした。当時は土の道路でまだ車より馬車や牛が道を往行して いました。母によると、私が2歳ぐらいの頃だと思いますが、道路に飛び出して勢いよく走ってきた馬車に轢かれかけたことがあったということでした。
また小学生の頃は靴なんか履かないで裸足で走り回っていましたので、道路に落ちた馬の糞とか牛の糞を踏んづけてしまう事もよくありました。当時は「馬の糞を 踏んだら足が速くなる。牛の糞を踏んだら遅くなる。」と言われていたのを半信半疑ながら信じていました。
そして、馬の糞だろうが牛の糞だろうが踏ん付けても別段慌てることもなく、そのまま普通に遊び続けていました。ただ家に帰り、家に入る時は入り口の水が入った 大きな壺から柄杓で水を汲んで足を洗ってから家に上がるようになっていました。
学校に行く時は運動靴を履いて行くのですが、学校で靴箱に靴をしまうと、休み時間や昼食時間は裸足で運動場を駆けまわって、帰る時にまた靴を履いて帰って いました。その時は靴を履いているので足を洗わないで家に入って、畳に座っていると真っ黒に汚れた足裏が母に見つかり、洗わされたりもしました。
何故、突然このような昔のお話をしたかというと、聖書を読んでいてイエス様が弟子たちの足を洗われた箇所を読んで、イエス様の時代の道路事情と私の小さな ころの事情がダブって思い起こされたからです。
イエス様の当時も道路を歩いていたら馬の糞や牛の糞があちらこちらに落ちていたことでしょう。其の頃の子供も裸足だったかもしれませんが、大人は動物の皮に ひもを通してサンダルみたいにして履いて歩いていました。歩いていると土埃だけでなく家畜の糞や汚れが足に付いたり、足とサンダルの間にも泥が入ったり したことでしょう。
ですから家に入る時は入口に、昔私の内にあったような水の入った壺があって、普通はしもべや奴隷がお客さんの足を洗ってくれるようになっていました。しかし、 イエス様の弟子たちはそれぞれプライドがあって、旅先ではだれもその仕事をしようとしないで家に上がっていたようです。
すると、食事の席についていたイエス様が上着を脱ぎ立ちあがって腰に手ぬぐいを巻き、弟子たちの足を洗い始められたのです。そして、洗い終わると「あなた方は 私のしたことが分かりますか。私があなた方の足を洗ったのだから、あなた方もへりくだって互いに足を洗い合いなさい。」と教えられたのです。
それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。ヨハネ13:14~15
私達はともすると変なプライドで人に仕えることを躊躇してしまいます。しかし、イエス様は上に立つ者ほど仕える者になるべきことを教えられました。私も馬の糞を ふんづけても、そのまま遊んでいた頃の心に帰ると喜んで仕えることが出来るようになれるのではないかと思いました。